たったひとりの大切な人
- カウンセラーの日常
目次
- 大正〜昭和を生きた、祖母のお話
- 代表カウンセラー 中島りえのご紹介
大正〜昭和を生きた、祖母のお話
今日は、わたくし中島の個人的なお話を。
わたしの祖母は大正生まれ。もう亡くなってだいぶ経ちますが、戦前〜戦後の時代を生き、102歳まで長生きしました。
祖母は、18歳で正造(まさぞう)と結婚し、3男2女を設けました。
父は次男、上から3番目になります。
末っ子の次女がまだ祖母のお腹にいるとき、夫・正造は結核で亡くなり、祖母は未亡人に。
当時、中島家は荒物屋(金物屋と雑貨屋が合体したような店)を営んでいて、祖母は店で働きながら家のこともやっていました。
その後、戦争の時代に入り、家も店も戦災で焼け、一家は相当な苦労をしながら混乱の時代を乗り越えたそうです。
夫は居ないし、5人の子どもを抱え、厳しい明治人の舅と姑。晩年は、舅の介護も担いました。
祖母の結婚後の人生って、本当に大変な思いばかりだっただろうな…と想像します。
祖母の口から、夫・正造の話を聞いたことはほとんどありません。
「おじいちゃんってどんな人?」
と聞いても
「あんまり覚えてない。身体の大きい人だった」
というくらい。
結婚期間はたったの数年。その後、苦労した時代が長すぎたからでしょうか。
5人の子どもたちも、上から2人の長男と長女がおぼろげに姿形の印象があるくらいで、下の3人は父親・正造の記憶は無いとのこと。
戦中は、どの家もこんな感じだったのかもしれません。
年老いた祖母は90代後半からは身体の機能が徐々に落ち、ずっと床についていました。
それでも、わたしがまだ小さかった息子(祖母にとってはひ孫)と一緒に顔を見せに行くと、
うれしそうに、か細い声で
「しょうちゃん、よくきたねえ」
と話しかけてくれました。
亡くなる少し前、当時小学生の息子がひとりで祖母の枕元を訪れた時のこと。
もう半ば意識が朦朧としていたのか、突然、祖母が
「正造は、いったいどこへ行っちゃったんだろうねえ」
「正造はいつ帰ってくるんだろうねえ」
と言ったそうなのです。
それは、祖母が5人の実の子たちにも言ったことがないような言葉。
「お母さんがお父さんの話をするなんて、聞いたことがない!」
「そんなこと言ったの? しかもしょうちゃんに!笑」
その話を聞いた父も母も、叔母たちも、びっくりしていました。
誰にも、淋しさや弱音を吐かなかった、祖母のなんとも正直なつぶやき。
人生の終わりにさしかかり、何も知らないひ孫にポツンと吐いてみた。
そんな感じでしょうか。
祖母が、100歳を超えてもなお、ずっとずっと待っていた、夫の正造。
姿形は無くとも、祖母の心の中で夫婦は寄り添って、長い長い人生の支えとなっていたいたのでしょうね。
代表カウンセラー 中島りえのご紹介